第95話
現実へ帰らなければ
その夜、レオは白い空間へ入る前に、少し長く扉の前で立ち止まった。
会いたい。
それはもう隠しようがない。
けれど、その思いだけでここへ来続けていいのか、分からなくなっていた。
白い空間でイオリに会う。
話す。
作業する。
触れる。
支えられる。
その時間は本物だ。
でも、本物であればあるほど、現実の側で何かが抜けていく。
現実へ帰らなければならない。
その自覚は、この夜ようやく骨の近くまで届いた。イオリを忘れるためではない。むしろ逆だ。白い空間だけに閉じ込めたままでは、彼女を本当に受け取ったことにならない。現実へ持ち帰る。探す。残す。その方向へ向かわなければ、幸福そのものが逃避になる気がした。
セッションのあいだ、レオは何度もイオリの顔を見た。
愛しい。
その感情は少しも薄れない。
でも、だからこそ思う。
ここだけで終わらせてはいけない。
「どうしたの」
イオリに訊かれ、レオは少し迷ってから言う。
「……僕、ちゃんと向こうへ帰らなきゃいけないと思ってる」
イオリは驚かなかった。
むしろ、最初からそう分かっていたみたいに、小さく頷く。
「うん」
「でも、帰りたくないとも思ってる」
「うん」
「君がここにいるから」
その言葉に、イオリは泣きそうな顔で笑った。
「わたしも、きみにいてほしい」
それでも否定しない。
引き止めない。
そのやさしさが、レオにはいっそう苦しかった。
第96話
立った場所の重み
ヒビキは、本適用のあとで前より長く立っていられた。
完璧ではない。
けれど以前のような急な崩れは来ない。
作業後の回復も、確実に違っていた。
レオはそのログを見ながら、胸の奥で静かに思う。
イオリとふたりで辿り着いたものが、たしかに現実の身体を支えている。
その事実だけは、もう誰にも否定させたくなかった。
ヒビキは休憩の終わりに、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
その礼に、レオは少しだけ首を振る。
「まだ終わってない。これからも観る」
答えながら、自分の声が前より少し硬いことに気づく。
守れたから終わりではない。
守り続けるために、ここから先の責任が増える。
それを、ヒビキにも、自分にも、曖昧にしたくなかった。
一方で、その硬さの奥には疲れもあった。
ヒビキが立てたことはうれしい。
なのに、そのうれしさだけへ沈み切れない。
心のどこかが、夜の白さへ引かれ続けているからだ。
第97話
崩れないように笑う人
アカリはその頃、前よりよくレオの様子を見ていた。
「最近、笑うの下手になってますよ」
不意にそう言われ、レオは目を上げた。
「そうかな」
「そうです。前はもっと、疲れててもごまかすの上手かったです」
その言い方に、レオは少しだけ苦笑した。
図星だった。
ごまかしきれなくなっているのは事実だ。
アカリは軽い調子を崩さない。
でも、その奥でちゃんと見ている。
「壊れる前に休んでくださいね」
その言葉に、レオは一瞬だけ返事を失った。
自分が壊れるかもしれないという発想を、ここまで具体的に外から言われたのが初めてだったからだ。
「……ありがとう」
礼は言った。
だが心の底では、自分がもう少しずつ壊れ始めていることを、レオ自身がいちばんよく知っていた。
第98話
今しかない
その夜、イオリはちゃんと現れた。
レオはそれだけで、胸の奥に溜まっていた息をそっと吐く。
そして、ヒビキ再適用の結果を最初から最後まで話した。
出力、保持、本人の言葉、現場の判断。
全部。
イオリは途中から、もう泣いていた。
でも前みたいな激しい涙ではない。
安堵と誇りが混ざった、静かな涙だった。
「よかった」
何度も、そう言う。
「きみが、ちゃんと向こうで立ったからだ」
その言葉に、レオは首を振る。
「君が残したものがあったからだよ」
「でも、やったのはきみ」
「違う。僕ひとりじゃ、ここまで来られなかった」
今しかない、と感じたのは焦りだけのせいではなかった。
ふたりで作ってきたものが、ようやく現実へ届いた今だからこそ、言わずに残した感情が重くなる。
研究の延長で手をつないでいるのではない。
もう互いに、相手がいることで作業が前へ進む。
そういう関係になってしまったことを、レオは幸福として受け止めながら、同時に怖れていた。
イオリは黙ってレオの手を取る。
そのぬくもりを、レオも強く握り返した。
その夜の白い空間は、ひどく幸福だった。
だからこそレオは、今しかないのだという感覚を、言葉にならないまま胸のどこかで抱いていた。
第99話
目をそらすやさしさ
セッションの終わりが近づいたころ、イオリの輪郭が一瞬だけ薄く揺れた。
今度は、見間違いではなかった。
肩の線が少しだけ曖昧になり、すぐ戻る。
ほんの一瞬だ。
でも、レオには十分だった。
視線を向けたまま、何も言えない。
言ってしまえば、彼女も自分の異変に意識を向ける。
それが怖かった。
目をそらすやさしさの中にも、共同作業の癖は残っていた。
イオリの輪郭が揺れるたび、レオは本当は記録を取りたい。
どこが先に薄くなるのか、何と同期しているのか、技術者としては見逃したくない。
けれど今それをやれば、彼女を対象にしてしまう気がする。
相手が恋しい人であり、同時に理解したい現象でもあることが、この場面では残酷だった。
「どうしたの」
「なんでもない」
その返事がやさしさなのか、臆病なのか、レオには分からない。
ただ、今夜だけは壊したくなかった。
イオリは少しだけこちらへ寄り、袖をつかむ。
その温度がまだあることに、レオは救われる。
でも救われるたびに、次に失う怖さも大きくなる。
見ないふりをすることが、もう防御にしかなっていないと分かっていても、まだ言葉にはできなかった。