第90話
遅れ
違和感は、ごく小さな形で始まった。
その夜、レオは白い空間へ少し早く入っていた。
イオリが現れる位置を何気なく見ている。
いつもなら、温度の点はほとんど間を置かずに立つ。
だが今日は、ほんの数秒遅れた。
遅れた、というほどでもないかもしれない。
気のせいだと言われれば、それまでの差だ。
それでもレオは、その白い数秒を妙に長く感じた。
やっと現実へ渡せたと思ったものが、今度は存在の側で揺らぎ始める。
そのことが、レオにはたまらなく堪えた。
まだ大丈夫だ。まだ一緒にできることがある。
胸の奥ではそう言い聞かせる。
怖いのは消えることそのものより、共同作業の続きを奪われることだった。
イオリが現れたあと、いつも通りに笑ったから、レオは何も言わなかった。
言えば、それが事実になってしまう気がした。
セッションのあいだも、大きな異常はない。
会話もできる。
距離も近い。
なのに、胸のどこかに小さなざらつきが残る。
「どうしたの」
イオリに訊かれ、レオは首を振った。
「なんでもない」
それは半分だけ本当だった。
本当に何でもないのかもしれない。
そう思いたかった。
でも、その夜の帰り際、レオは白い空間の端を一度振り返ってしまった。
何もない白さが、少しだけ広く見えた。
第91話
認めたくないもの
翌日、レオは現実側の作業へ没頭することで、そのざらつきを押し流そうとした。
再適用条件の修正、装着圧の再微調整、ヒビキの回復フェーズ観察。
やるべきことは山ほどある。
考えている暇なんてないはずだ。
それでも、図面を見ているときにふと、昨夜の数秒がよぎる。
白い空間の、少し長かった静けさ。
昼、アカリが資料を持ってきたとき、レオは自分の返事が一拍遅れたことに気づいた。
認めたくないからこそ、レオは作業を増やした。
追加の記録、補助ログ、保存形式の整理、現実側の手順書の更新。
仕事をしていれば、失う怖さを考えずに済む気がしたからだ。
けれど本当は分かっている。
彼が保存したいのは結果だけではなく、白い空間で交わしたイオリの声そのものなのだと。
「レオさん?」
「……すみません。大丈夫です」
大丈夫ではないのかもしれない。
でも、まだそれを言葉にしたくなかった。
夜になって白い空間へ入ると、今日は遅れはなかった。
イオリもいつも通りだ。
だからこそレオは、自分が神経質になっているだけだと思おうとした。
けれど、安心した瞬間に胸が痛む。
安心に条件がつき始めていること自体が、もう兆候だった。
第92話
知らないまま近づく人
数日後、カレンは共有ラウンジでレオに温かい飲み物を差し出した。
「顔色がよくないです」
「そんなに分かりやすいですか」
「分かりやすいです」
少し困ったように笑う彼女の顔は、変わらずやさしい。
けれど最近、そのやさしさが前より近くに感じられる。
カレンの距離は、生活としては自然だった。
気づけば隣にいて、無理のない調子で気にかけ、返事を急がせない。
その近づき方はやさしくて、誠実だった。
だからレオは余計につらい。
自分の中で大きくなっているのが罪悪感であって、恋ではないと、もう分かってしまっているからだ。
「何か、うまくいってないんですか」
その問いに、レオは少し黙った。
言えない。
言えるはずがない。
でも、何もなさそうな顔もできなかった。
「……少し、考えることが多くて」
「そういうとき、ちゃんと寝ないですよね」
カレンはそう言って、レオの紙コップを自分のものと軽くぶつけた。
「せめて温かいものは飲んでください」
その仕草があまりにも自然で、レオは胸の奥に鈍い痛みを覚える。
彼女は何も知らない。
知らないまま、現実のやさしさだけで距離を詰めてくる。
ありがたい。
でも、自分はその中心で彼女を見ていない。
その事実が、最近はますますはっきりしていた。
第93話
ふたつの準備
現実では、ヒビキ再適用の本番準備が進んでいた。
白い空間では、イオリと過ごす時間が以前より大事になっていた。
レオはその両方を抱えたまま日々を過ごす。
片方だけを選ぶことはできない。
現実の床も、白い空間の白さも、もうどちらも自分の仕事になってしまっていた。
ふたりは夜ごと、わずかな修正を続けた。
装着時の圧迫感をどう逃がすか。
出力直前の呼吸誘導をどの程度入れるか。
ヒビキのような若い炎系に合わせた場合、別の身体で何が起きるか。
イオリは感覚の言葉で話し、レオはそれを図へ移す。
ときどき逆もある。
レオが示した図を見て、イオリが「それ、たぶん、もっとこう」と言い直す。
その共同作業の手つきが、ふたりにはもう自然になっていた。
けれど作業の合間、レオはふいにイオリの輪郭を見てしまう。
いつも通りに話している最中にも、今日もここにいてくれるだろうかという不安が、勝手に胸へ差し込んでくる。
イオリはその気配に薄く気づいているようでもあった。
だが、はっきりとは言わない。
互いに、まだ言葉へしきれない時間が続いていた。
第94話
予感のないやさしさ
現実側では、カレンが少しずつレオの生活に入り込んでいた。
大げさなことはしない。
昼の飲み物、帰り道、短い雑談、共有ラウンジの隣の席。
ただ、それが切れずに続く。
その日、カレンはレオの机に小さな包みを置いた。
「甘いもの、苦手じゃないなら」
「ありがとうございます」
「疲れてるとき、少しは違うので」
予感のないやさしさは、時に残酷だった。カレンは何も知らず、ただ今ここにいるレオを気にかけている。だからその真っ直ぐさに、レオは胸が痛む。受け取っているのに、返せていない。隣にいるのに、見ている場所が違う。その差を、彼だけが知っている。
レオは受け取った。
受け取ったのに、心の底では別のことを考えている。
今夜、イオリはちゃんと来るだろうか。
そんなふうに。
その瞬間、自分の不誠実さが嫌になる。
カレンは何も悪くない。
むしろやさしい。
それでも、自分の心はここにいない。
「レオさん」
「はい」
「たまには、休んでくださいね」
そう言われて、レオは曖昧に笑うしかなかった。
休むという意味が、自分の中でどこにも定まらなくなっていた。