第100話
二重生活のひずみ
その頃から、レオの生活には小さなひずみが出始めていた。
工場での仕事は続く。
開発室での評価も続く。
夜には白い空間へ向かう。
表面上は成立している。
だが心の一部がずっと、白い空間の入り口で待ち続けている。
観察シートの注記を一行飛ばす。
メールの返答が半拍遅れる。
会議で言うはずだった数字を一瞬忘れる。
どれも小さなことだ。
でも、レオ自身にははっきり分かった。
自分が少しずつ削られている。
二重生活のひずみは、睡眠不足や食事の乱れだけではない。
会話の途中で、現実の相手へ返すべき言葉を飲み込み、代わりに白い空間で交わした沈黙を思い出してしまう。
カレンの前でさえそうなる自分に、レオは戸惑う。
愛想が悪くなりたいわけではない。
ただ、心の配分がもう元には戻らないのだ。
アカリはそういう変化に早く気づいた。
「最近、寝てます?」
「寝てる」
「その返事のときは寝てないですね」
図星だった。
レオは苦笑するしかない。
「少しだけ、いろいろ重なってて」
アカリはそれ以上訊かなかった。
代わりに、机の端へ小さな栄養ゼリーを置いた。
「せめてこれだけでも」
そのささやかな気づかいに、レオは礼を言う。
現実の側から差し出される手は、こんなにも多い。
なのに、自分の心の中心はひとつの白い空間から離れない。
その事実が、最近は重くなり始めていた。
第101話
近づく現実、遠い心
カレンとの時間は、以前より少しだけ長くなっていた。
仕事帰りに売店へ寄る。
共有ラウンジで短く話す。
紙コップを持って並んで歩く。
外から見れば、ごく自然に距離が縮まっているように見えるだろう。
その日も、カレンはレオの歩幅に合わせてゆっくり歩いた。
「最近、少しだけ安心しました」
「何に?」
「前より、ちゃんとここにいる時間があるので」
その言い方に、レオは胸が痛んだ。
ここにいる時間。
たしかに増えたように見えるかもしれない。
でも本当は違う。
ここに戻ろうと努力しているだけで、心の底では別の場所を見ている。
カレンは少しずつ近づいてくるのに、レオの心は同じ速度では寄れない。
その差が、彼にはひどく不誠実に思えた。
隣に座る。飲み物を渡す。帰り道を合わせる。
そういう現実の積み重ねはたしかに大事なのに、夜になれば彼の胸は別の白さへ向かってしまう。
近づく現実と遠い心のあいだで、レオは自分自身にいちばん疲れ始めていた。
「レオさん」
ふいに、彼女は少し真面目な声で言った。
「疲れてても、ひとりで抱えすぎないでくださいね」
「……ありがとうございます」
返事はした。
でも、その言葉を受け取るいちばん深い場所は、やはり動かなかった。
自分はこの人をちゃんと見ていない。
そのことが、もうごまかせなかった。
第102話
好きだと言う夜
その夜、白い空間ではほとんど仕事の話をしなかった。
イオリは少し疲れたような顔をしていたが、レオのそばへ来るとすぐに安心したように息をついた。
それがもう癖になっているのだと分かる。
「きょう、会えてよかった」
「僕も」
ふたりはすでに、いくつもの仕事を共有してきた。
記録を読み、図面を直し、言葉を渡し、現実へ届ける方法を考えた。
その全部があったから、この告白は感情だけの噴出ではない。
孤独を一緒に担ってくれた相手へ向ける、遅すぎて、でもこれ以上遅らせられない愛情だった。
「最近、それ思うの、前より多い」
レオはその言葉に、胸の奥が静かに痛む。
前より多い。
それは幸福の言葉であり、同時に何かを予感している言葉でもあった。
イオリはレオの手を取り、今度ははっきり言った。
「わたし、レオのこと、好き」
レオは目を閉じた。
もう知っている。
知っていた。
それでも、こうしてもう一度言葉になると、胸の中の形が少し変わる。
「僕も好きだよ」
返した瞬間、イオリは泣きそうに笑った。
恋だ。
たしかに恋だ。
でもそれだけではない。
敬意も、救いも、守りたさも、喪失の怖さも全部混じっている。
ふたりはしばらく、手をつないだまま白い床へ座っていた。
言葉は少なかった。
けれど、その少なさの中へ愛情はもう十分すぎるほどあった。
第103話
ほどける輪郭
翌夜、イオリは現れるまでに少し長く時間がかかった。
現れたあとも、輪郭の端がときどきかすかに薄くなる。
耳の先。尾の輪郭。肩の線。すぐ戻る。
でも、確実に前とは違う。
レオはとうとう、ログの裏で基礎記録を見始めた。
対象外熱源タグ、初期異常点、再構成補間の揺れ。
最初から安定した存在ではなかったのだと、あらためて突きつけられる。
白い空間で向き合うイオリは、いつものようにやさしい。
だからこそ、その揺らぎが残酷だった。
輪郭がほどけていく夜でさえ、ふたりは最後まで少し作業をした。
どの記録を残すか。どこに手がかりがあるか。現実に繋がる名前はないか。
愛し合っているのに、ただ抱き合うだけでは終われない。
レオとイオリの関係は、最後の最後まで共同作業の形をしていた。
それが救いであり、残酷でもあった。
「レオ」
「うん」
「きょう、なんか、静か」
「……少しだけ」
「こわい?」
その問いに、レオはしばらく答えられなかった。
そして、ようやく頷く。
「うん」
イオリはそれ以上、無理に明るくしなかった。
ただ、いつもより強く袖をつかんだ。
その仕草だけで十分だった。
ふたりとも、もう何かが変わり始めていることを、うすうす知っていた。
第104話
最後までそばに
白い空間は、その夜ひどく静かだった。
何かが終わる前の静けさなのか、ただ疲れた一日の終わりなのか、もう区別がつかない。
それでもイオリは今夜もそこにいて、レオのそばへ来た。
「きょう、会えたね」
それが挨拶みたいだった。
会えること自体が、すでに出来事になり始めている。
レオはもう、言葉を選ぶ余裕がなかった。
「イオリ」
「うん」
「もし、少しずつ薄くなってるなら、僕に隠さなくていい」
イオリは驚いたように目を開いた。
それから、小さく息を吐く。
「やっぱり、分かるんだ」
「分かる」
「こわいよ」
その一言は、白い空間のすべてを静かに震わせるくらい切実だった。
レオは迷わず彼女の手を取る。
「僕もこわい」
「うん」
「でも、最後までそばにいる」
最後までそばにいるという言葉には、感情だけでなく意志があった。
もし白い空間から消えても、レオは終わらせない。記録を辿る。現実へ行く。名前のない少女のままで埋もれさせない。
その決意を、イオリはたぶん言葉の全部までは聞かなくても受け取っていた。
だから彼女は泣きながらも、ただそばへ寄って、いつもより強く袖をつかんだ。
「最後って、言っちゃうんだ」
「言いたくなかった」
「でも、言ってくれてよかった」
ふたりはそのまま、長く黙っていた。
言葉より、そばにいることのほうが大事な夜だった。
レオはその時間を、ひとつも取りこぼしたくなかった。