第71話
形になる未来
その夜、レオは試作一枚目を白い空間の簡易表示へ読み込んだ。
イオリは、それを見た瞬間、呼吸を小さく止めた。
薄い保持層の形、呼吸に沿って動く線、体幹側へ寄り添う構造。
まだ完成ではない。
それでも、「未来の技術」と呼べる顔をしていた。
「……ほんとに、できてる」
「まだ途中だよ」
イオリは表示された試作を見たあと、自分から一歩踏み込み、装着の想定動作を試し始めた。腕を上げる。息を吸う。尾をわずかに動かす。レオはその動きに合わせて制御線を微修正し、彼女はまた首を傾げて感想を返す。見つめ合うより先に、同じものを見て、同じ問題に手をかけている。その事実がふたりの距離を、ただ甘いだけではない親密さへ変えていた。
「でも、途中って、もう、ないのと全然ちがう」
その声は震えていた。
レオは何も急がず、ただ隣に立つ。
イオリはしばらく表示を見て、それからふいに目を伏せた。
次に顔を上げたとき、目の端が少し濡れていた。
「ごめん」
「なんで謝るの」
「うれしいの、へた」
その言い方に、レオは胸がほどけるような痛みを感じた。
七十年前の彼女の時代には、こんなものはなかった。
自分の身体の中で起きていることを、確かめる術も、形にして返してくれる技術も。
「謝らなくていい」
レオがそう言うと、イオリは小さく頷いた。
「だって、わたし、ずっと、自分だけかもしれないって思ってたから」
その言葉は短かった。
でも、その短さの中に長い孤独が入っていた。
レオは思わず、彼女の肩へ手を伸ばしかける。
少し迷ってから、結局そっと袖口だけに触れた。
イオリも逃げなかった。
高い体温が布越しに伝わる。
「もう、自分だけじゃない」
そう言った声は、レオ自身が思っていたよりもやわらかかった。
第72話
売店の前で
その日の帰り、開発棟を出たところでカレンに声をかけられた。
「まだ帰ってなかったんですね」
彼女は設備側の連絡と現場調整を担う補助担当で、最近、夜間申請や書類まわりで顔を合わせることが増えていた。
明るいけれど、押しつけがましくはない。
人の疲れに気づくのがうまい人だと、レオは前から思っていた。
「少しだけ遅くなって」
カレンと立ち話をしながらも、レオの頭の半分はまだ白い空間にあった。今日はどこまで直せるだろう、夜に見せたらイオリはどんな顔をするだろう。そんな考えが離れないまま、目の前の紙コップの温度だけが現実だった。カレンのやさしさはたしかに助かる。けれど、その温度に心まで落ち着くわけではないことを、レオはもう知り始めていた。
「売店、まだ開いてますよ。温かいの、飲みます?」
断る理由がうまく見つからず、レオは頷いた。
紙コップを受け取り、外のベンチへ並んで座る。
話題はごく普通だった。
材料の納期、夜間の申請、現場の癖、アカリの修正の細かさ。
どれも現実の話で、だからこそ少し安心する。
「レオさんって、考え込むとずっと同じ顔しますよね」
不意にそう言われて、レオは少しだけ笑った。
「どんな顔ですか」
「戻ってきてない顔」
その表現が妙に正確で、返事に少し困る。
白い空間のことを知るはずもないのに、カレンはこういうところだけ触れてくる。
「ちゃんと戻ってますよ」
「半分くらいは」
そう言って笑う彼女のやわらかさに、レオは少し救われた。
追及しない。
でも見逃しもしない。
その距離感が心地よかった。
ただ、紙コップの熱を手に受けながらも、レオの心の底は別の場所を向いていた。
それを自分で分かってしまうのが、少しだけ苦かった。
第73話
白い幸福
その夜の白い空間は、驚くほど穏やかだった。
解析パネルは閉じたまま、ふたりは何もない白い床へ並んで座る。
肩が軽く触れる距離。
呼吸が自然と揃う距離。
イオリはしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。
「きょう、うれしかった」
その夜は、ただ隣にいるだけでは終わらなかった。イオリは試作の襟元にあたる部分を見て"ここ、擦れるかも"と小さく言い、レオは笑ってパラメータを開き直す。直して見せると、今度は彼女が嬉しそうに目を細める。ふたりで少し働いて、少し笑って、また黙る。その繰り返しが幸福だった。
「うん」
「未来って、遠いだけじゃないんだね」
その言葉を聞いた瞬間、レオは胸の奥が静かに満ちるのを感じた。
届かないものを追い続けてきた人生のどこかが、ようやく報われたようだった。
イオリは視線を落としたまま、そっとレオの手の甲へ触れる。
ほんの一瞬。
でも、それだけで十分だった。
高い体温と、こちらの細い電気が交わる。
「レオ」
「うん」
「きみがいて、よかった」
その一言は、どんな告白より深く、レオの中へ落ちた。
返事をしようとして、うまく声が出ない。
代わりに、触れられた手の向きを少しだけ変えて、こちらからも触れ返した。
「僕も」
言えたのは、それだけだった。
でも、それ以上は要らなかった。
この幸福は派手ではない。
けれど簡単には壊れてほしくないと、心から思った。
第74話
現実担当
翌日の夕方、カレンはまた売店の前にいた。
まるで待っていたように見えたが、本人はそういう顔をしない。
ただ自然に、「今日も温かいの飲みます?」と言う。
レオは一瞬だけ迷ってから、頷いた。
ベンチへ並んで座る。
昨日より会話は少し途切れがちだった。
それでも気まずくはない。
カレンが差し出す現実の時間は、押しつけがましくないのに確実だった。食べましたか、今日は帰れそうですか、無理してませんか。そういう何でもない問いが、レオを工場と研究室のあいだへ引き戻す。一方で、その現実へ戻されるほど、白い空間でイオリと共有している作業の濃さも際立ってしまう。レオの中では、ふたつの時間がもう分けがたく重なり始めていた。
「最近、ずっと忙しそうですね」
「少し」
「いい忙しさですか」
その問いに、レオは考え込む。
簡単には答えられなかった。
「……たぶん、そうです」
「たぶん、って言うときは難しいやつですね」
その言い方に、レオはまた少し笑ってしまう。
カレンは紙コップを手の中で転がしながら続ける。
「じゃあ、私は現実担当にしておきます」
「現実担当?」
「はい。考え込みすぎた人に、温かいもの飲ませる係」
冗談めいているのに、どこか本気だった。
レオはその言葉に、わずかに胸がゆるむ。
「助かります」
「よかった」
カレンはそれ以上、踏み込まなかった。
何を考えているのか、誰のことを思っているのか、そんなことは訊かない。
ただ、ここにいる時間だけは現実へ戻してくれる。
ありがたいと思う。
けれど、そのありがたさと恋しさは違うのだということも、レオはもう感じていた。
第75話
守る側の目
現場では、ヒビキ再適用に向けた観察項目の見直しが進んでいた。
ヒビキ本人は、早くラインへ戻りたい気持ちを隠しきれていない。
その焦りが、レオにはよく分かった。
分かるからこそ、甘くはできなかった。
「出せるかどうかじゃない」
確認の最中、レオはいつもより少し硬い声で言った。
守る側の目ができたのは、資格や肩書きのせいだけではなかった。誰かの身体の切実さを、夜ごと具体的な言葉で手渡されているからだ。ヒビキの異常も、アカリの無理も、昔なら見えなかった細部まで今は見えてしまう。イオリと積み上げている共同作業が、レオの現実の視力まで変えはじめていた。
「出したあと、自分の身体がどうなってるかまで見ろ」
ヒビキは少し悔しそうに唇を結ぶ。
「……はい」
そのやりとりを、アカリが少し離れたところで見ていた。
あとで彼女は小声で言う。
「レオさん、最近ちょっと厳しいですね」
「前からだよ」
「前は隠してました」
その返しに、レオは何も言えなかった。
たしかにそうかもしれない。
見えてしまったものを、ないことにはできない。
誰かが傷つくほうが嫌だから、先に言ってしまう。
それはずっと前からあった資質だった。
でも今は、前より表に出ている。
イオリの観測を軽く扱いたくない。
ヒビキの崩れも、もう体質や根性で済ませたくない。
その思いが、レオの言葉を硬くしていた。
アカリは少しだけ笑って言った。
「でも、嫌な厳しさじゃないです」
「そう見える?」
「はい。守る側の顔してるので」
その言い方が、レオには少しだけ痛かった。
守る側でありたいと思っているからこそ、まだ守りきれていない現実が重いのだ。