第66話
触れた図面
その夜、白い空間へ入ると、イオリはいつもより少し近い場所に立っていた。
「きょう、どうだった」
先に訊いたのは彼女のほうだった。
もう、図面の続きを待つ顔をしている。
レオは簡単に昼のレビューの話をした。
集めるのではなく、留めること。
強くするのではなく、崩れ方を変えること。
感覚を切り捨てずに、でも現実で通る言葉へ直したこと。
イオリは図面の前へ来ると、レオの説明を待つより先に、細い指で胸部の保持層をなぞった。"ここ、前よりやさしい"と言って、それから腹部の線を見て"でも、ここが遅いと、わたしはだめだった"と続ける。数値の根拠としては曖昧なのに、修正の方向は驚くほど的確だった。レオはその場でレイヤを開き直し、彼女の言葉に合わせて時間定数を変える。白い空間には、恋人未満の親密さと、共同研究者の緊張が同時に満ちていた。
イオリは静かに聞き、やがて小さく頷いた。
「うん。そっちのほうが、ほんとっぽい」
「ほんとっぽい?」
「わたしの中で起きてたの、足りないっていうより、いなくなるのが早い感じだったから」
その言葉を聞いた瞬間、レオはまた胸が詰まった。
工学の説明にすると長くなることを、イオリはほんの一言で掴んでしまう。
「うん。僕もそう思う」
レオがそう返すと、イオリは少しだけ目を細めた。
その表情がやわらかく、近かった。
ふたりで試作図を見下ろす。
白い床に浮かぶ淡い輪郭へ、イオリがそっと手を伸ばす。
触れるわけではない。
けれど、輪郭をなぞる指先は、たしかに愛しそうだった。
「変だね」
「なにが?」
「わたし、これ、まだできてないのに、ちょっと安心してる」
レオはすぐには答えられなかった。
安心しているのは自分も同じだったからだ。
間に合うかどうかは、まだ分からない。
でも、もうただ見ているだけではないところまで来た。
「僕も」
それだけ言うと、イオリは驚いたようにこちらを見た。
そして、ほんの少し笑った。
「レオ、きょう、やさしい」
「いつもやさしいつもりだけど」
「きょうは、ちがう」
言い返そうとして、やめた。
たぶん本当に違っていた。
図面に向ける目の中へ、責任だけではなく、はっきり感情が混じり始めていたからだ。
第67話
現場で立つ言葉
翌朝、レオは第三ライン脇でゴウジと装着条件の確認をしていた。
ヒビキ再適用までは、まだいくつか段階がある。
だが方針だけは、もうぶらしてはいけなかった。
「現場向けにはどう言う」
ゴウジの問いに、レオは端的に答える。
現場で言葉を立てるたび、レオは自分の背後にイオリの観測が立っている気がした。見えないまま支えてくるその存在に、胸が少し熱くなる。同時に、ここで通らなければ彼女の感覚はまた“気のせい”に戻されてしまうという怒りもあった。だからレオの声は静かでも、芯だけは硬かった。
「火を強くするためのものではありません。火のあと、身体が空になるのを遅らせるための補助です」
「いいな」
ゴウジは短く言った。
それだけで、レオには少し救いだった。
現場は、複雑な説明を待ってくれない。
けれど雑な説明では、人が傷つく。
そのあいだに立つ言葉を探すのが、自分の仕事なのだと改めて思う。
通路の向こうでは、ヒビキが別工程の補助へ入っていた。
今日は火を使わない。
それでも体の使い方に、どこか慎重さが残っている。
レオは思わずそちらを見ていた。
守りたいと思う気持ちが、最近は前よりずっとはっきりしている。
ヒビキに対しても、イオリに対しても。
その視線に気づいたのか、ゴウジが低く言った。
「焦るなよ」
「……はい」
「早く助けたい顔してる」
レオは返事に少し詰まった。
図星だった。
「早く助けたいのは悪くない」
ゴウジは続ける。
「だが、早く助けたい気持ちで雑に作るな。現場は、その雑さで簡単に壊れる」
「分かっています」
分かっている。
けれど、分かっていることと、平気でいられることは別だった。
レオは保護帽のつばに触れ、静かに息を整える。
焦りを消すことはできない。
ならばせめて、焦りのまま精度を落とさないようにするしかない。
それがいまの自分にできる、いちばん誠実な進み方だった。
第68話
近くにいる理由
その夜、白い空間では解析パネルをほとんど開かなかった。
図面はある。
議論も進んでいる。
けれど今日は、どちらも少し脇へ置きたい気分だった。
イオリは白い床へ腰を下ろし、レオも少し離れて同じように座る。
何を話すでもない時間が流れた。
「きょう、疲れてる」
やがてイオリは、白い床へ指先で簡単な線を描き始めた。吐く前、吐いたあと、空になるまで。子どもが絵を描くみたいな不器用な線なのに、レオにはどの模式図よりも分かりやすかった。彼はその隣で線を補い、言葉を足し、また彼女に首を振られる。そうやって一枚の図にもならないやりとりを重ねている時間が、レオにはたまらなく愛しかった。
先に言ったのはイオリだった。
「分かる?」
「分かるよ」
少しだけ笑ってから、レオは頷いた。
「現実で考えることが増えると、ここへ来たとき、ほっとする」
「うん」
「でも、ほっとするほど、戻らなきゃとも思う」
その言葉に、イオリはしばらく黙っていた。
否定しないところが、彼女らしいと思った。
やがて彼女は、床へ置いた自分の手を少しだけ動かし、レオの袖の端をつまむ。
「戻っていいよ」
「……うん」
「でも、来て」
その続きは、言葉にしなくても分かった。
現実へ戻っていい。
でも、ここを捨てないでほしい。
そんな意味が、細い指先からそのまま伝わってきた。
レオは袖をつまむその手に、自分の指先をそっと重ねた。
触れた瞬間、わずかにしびれが走る。
イオリの体温は高く、こちらの電気は細い。
その違いが、嫌ではなく、たしかな幸福だった。
「来るよ」
レオがそう言うと、イオリはほっとしたように息をついた。
その横顔を見たとき、レオは胸の奥で静かに理解した。
自分がここへ来る理由は、もう研究だけではない。
第69話
試作の一枚目
現実側では、最初の試作シートがようやく形になった。
耐熱繊維、可動部補助材、体幹側の保持層、末端へ向かう流れを急がせないための薄い制御パターン。
まだ粗い。
けれど、ただの図面ではなく、初めて触れられるものになった。
レオはそれを手に取り、しばらく黙って見ていた。
ここまで来るのに、どれだけの段階が要ったかを知っている。
ヒビキの崩れ。
匿名記録。
白い空間。
イオリの言葉。
その全部が、この一枚へ入っている。
アカリが横から覗き込み、小さく言った。
試作シートの断面を見ながら、レオは白い空間でイオリが言った細部を思い出していた。"背中は守られたいけど、閉じられすぎると苦しい"。"ここが重いと、息が怒る"。感覚の言葉は設計書にはそのまま書けない。けれど、その一言一言がなければこの一枚目はもっと鈍く、もっと他人事の形になっていたはずだった。試作はレオが作っていても、発想はすでに二人分だった。
「……ほんとに服っぽくなってきましたね」
「服ではないけどね」
「分かってます。でも、ちょっと感動します」
その言い方がまっすぐで、レオは少しだけ笑った。
「僕も」
言いかけて、すぐに言葉を切り替える。
「……私も、少し」
アカリは気づかなかったようだった。
だがレオ自身は、その言い直しに内心で苦笑する。
イオリと話しているときだけ、自然に「僕」が出る。
最近は、それがもう癖のようになっていた。
試作シートを作業台へ置く。
これを着るのは、ヒビキだ。
だから美しいだけでは足りない。
仕事へ耐え、呼吸を邪魔せず、崩れ方だけを変えなければならない。
それでも、その薄い一枚が机の上にあるのを見ていると、レオには少しだけ胸が熱くなった。
ようやく、手をかけられるところまで来たのだ。
第70話
受け取れる形
昼の小会議で、レオは試作一枚目の方向性を説明した。
材料担当は寸法と耐久側から問い、装着担当は着脱性を問い、ゴウジは現場での邪魔にならなさを問う。
いつも通りのレビューだ。
けれど今日のレオは、前より少し落ち着いていた。
「着ることで火を強めるわけではありません」
「身体の中で保持が崩れる速さを遅らせます」
「本人が出力後に“まだ残っている”と分かる時間を作ります」
そのたびに、相手の表情が少しずつ変わっていく。
通じている、と分かる変化だった。
会議の場では、レオはあえて“過去の記録では”とだけ言った。イオリの名をまだここへ出すわけにはいかない。それでも彼女が渡した感覚を、自分ひとりの手柄みたいに使う気にもなれなかった。受け取れる形へ直すたびに、レオの中では"これは僕ひとりの案じゃない"という気持ちが強くなる。だからこそ、現実で通るたびに真っ先にイオリへ報告したくなるのだった。
会議のあと、上司が紙を見ながら言った。
「おまえ、前より随分、人に渡すのがうまくなったな」
レオは少しだけ笑った。
「前は下手でしたか」
「下手だった。自分で抱えたまま正しさだけ渡そうとしてた」
否定できなかった。
その通りだったからだ。
「今は、相手が受け取れる形まで考えてる」
その一言に、レオは胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
イオリから受け取ったものを、今度は現実へ渡す。
その流れが、ようやく自分の中でもひとつにつながってきたのだろう。
ただ、そうやって仕事が進むほど、白い空間でイオリへ見せたい気持ちも大きくなる。
良い報告を早く伝えたい。
喜ぶ顔が見たい。
その感情は、もう隠しようがなかった。