第41話
安心できる場所
その日は解析よりも先に、ふたりはしばらく何もせずに立っていた。
安心できる場所ができると、人は急に弱くなる。その弱さを見せてくれること自体が、レオにはうれしかった。
白い解析空間の中で、起動直後の静けさだけが広がっている。
パネルも、モデルも、まだ呼び出していない。
それなのに、この時間は無駄には感じられなかった。
イオリが先に、ひとつ息をした。
それに合わせるように、レオも同じくらいの深さで息を吸う。
呼吸を共有する、というほど意識的ではない。
けれど、いつのまにかそうなっている。
もう何度も繰り返してきたことだった。
「ここ、変だね」
イオリが少し笑う。
「解析室なのに、休める」
「たしかに」
レオも笑った。
本来ここは、解析するための場所だ。
なのにいまは、イオリが警戒を解いて息をつける場所にもなっている。
そのことが、たまらなくうれしい。
イオリは、ためらいながらレオの腕へ自分の肩をかすかに寄せた。
寄りかかるほどではない。
でも、触れたことははっきり分かる近さだった。
「ちょっとだけ、ここにいると平気」
安心できる場所があると、人はそこへ何度も帰りたくなる。レオにとってその気持ちは、もう十分に愛情だった。
その頼り方があまりに無防備で、レオは胸の奥が熱くなるのを抑えきれなかった。
守りたい、と思った。
理屈より先に、その気持ちが出た。
第42話
研究の中にいる感情
開発室へ戻ったレオは、ヒビキ用スーツの設計画面を開いた。
研究の中に感情があると気づいた瞬間、レオはもう後戻りできなかった。学問として守りたいものが、そのまま大切な相手になっていった。
体幹保持層の厚み、末端遅延放熱の位相、呼吸補助に干渉しない可動域。
やるべきことは明確だ。
解析は進んでいる。
イオリの知見も、設計へ具体的に入ってきている。
なのに、その夜のレオは、いつもより少しだけ仕事へ入り込みにくかった。
理由は分かっている。
画面の向こうに、モデルだけではなくイオリの顔が浮かぶからだ。
どこが先に薄くなるのかを話すときの声。
熱が怖くないと言ったときの目。
肩が触れたときの、あの静かな体温。
レオは端末の前で、自分へ問いかける。
これは研究への没入か。
共感か。
それとも、もっと別のものか。
すぐには答えが出ない。
いや、出したくないのかもしれなかった。
研究と恋が、まだ分離していない。
それが今の正直な状態だった。
イオリの感覚は、ヒビキを救うための設計知見でもある。
そして同時に、自分の中へ深く入ってきた誰かの言葉でもある。
その二つを、まだ別々の棚に置くことができない。
レオは、設計ログへ追記を入れる。
出力保持支援再設計。
体幹勾配優先。
呼吸回復同期。
そしてその下へ、メモとして小さく書いた。
イオリ条件にて再検証。
その一行を見つめていると、胸の内側がまた少し熱くなる。
単なる条件名ではない。
ひとりの名前を、自分がこんなふうに設計の中へ残していること自体が、もう特別だった。
レオは椅子にもたれ、目を閉じる。
もしイオリに出会っていなければ、この設計はここまで来ていない。
それは事実だ。
でも、いまの熱はそれだけで説明できない。
設計が進んで嬉しい、だけではない何かが混ざっている。
ふと、自分の手のひらを見る。
火は出ない。
それでも今は、その空いた手の中に、何か温かいものが残っている気がした。
研究の中に感情があると知っても、レオは引かなかった。むしろそれで初めて、守りたい理由がはっきりした。
その感覚を、レオはもう無視できなかった。
第43話
わかってもらえた、好きになってしまった
その日のセッションは、設計確認のあと、長く沈黙が続いた。
好きになってしまった、という感情は思ったより静かに来た。けれど静かなぶんだけ、逃げ場がなかった。
白い空間に表示されたヒビキ用スーツのモデルは、以前よりずっと整って見える。
イオリの感覚を反映した保持設計が入り、呼吸の戻り方も考慮され、中心勾配を守る構造がようやく形になり始めていた。
ふたりとも、それを見ていた。
同じものを見ているはずなのに、レオの胸の中には、設計だけでは説明できないものが残っている。
イオリが先に、静かに言った。
「レオ」
「うん」
「私、ずっと、わかってもらいたかったんだと思う」
その声はひどく穏やかだった。
長く抱えていた願いを、ようやく言い切れる場所へ来た者の声だった。
「抜けることも、残らないことも、ただ変な感じがするってだけじゃなくて、
ちゃんと起きてることなんだって」
レオは、その言葉を胸の奥へまっすぐ受け取る。
ここまで来るまでに、どれだけ一人で確かめ、疑い、書き残してきたのかを思う。
胸が痛い。
同時に、その孤独へ今やっと手が届いていることが、たまらなく愛しかった。
「……うん」
それ以上の返事が、すぐには出なかった。
喉の奥が詰まっていた。
イオリは少しだけ笑う。
「いまは、わかってもらえたって思える」
好きになってしまったと認めたあと、レオは少しだけ世界に弱くなった。傷つく可能性ごと相手を大事にしてしまうからだ。
その一言で、レオの中の何かが静かに決まった。
嬉しいだけではなかった。
泣きたくなるほど、うれしかった。
第44話
認めたあとの熱
レオはしばらく白い解析空間の中で動けなかった。
認めたあとで、世界の見え方が少しだけ変わる。レオはどこを見ても、前よりイオリの気配を探してしまった。
イオリはすぐ隣にいる。
肩に触れる温度も、呼吸の細い上下も、これまでと何も変わらない。
変わったのは、自分のほうだった。
好きになってしまった。
その一文を内側で認めた瞬間から、いままでのすべてが少し違う位置へずれて見える。
彼女の言葉を拾っていた時間。
袖のぬくもりに触れた時間。
ただ並んで呼吸を揃えた時間。
それらは理解の積み重ねだったはずなのに、もうそれだけではなかった。
イオリがレオのほうを向く。
「どうしたの」
「……ちょっと、考えてた」
嘘ではない。
けれど、正確でもなかった。
レオはいま、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。
いつも通りに見えているだろうか。
それとも、少しは何かが漏れてしまっているだろうか。
イオリは、不思議そうにしながらも、それ以上は問い詰めなかった。
そういうところも、レオの胸に残る。
彼女は急がせない。
受け取るまで待ってくれる。
認めたあとで増えたのは幸福だけではない。失いたくないという恐れも、同じ速さで大きくなっていった。
それが余計に、苦しかった。
苦しいのに、嫌ではない。
むしろ、こんなふうに誰かを好きになることが、自分にはまだ起こるのだと知ってしまって、少しうれしかった。
少し怖かった。
そして、失うのがもう怖かった。
第45話
現実側の呼び声
翌朝、現実側の第一工場は、いつも通り動いていた。
現実側の呼び声に引き戻されるたび、胸の中で二つの時間がぶつかった。どちらも大事なのに、同じ形では抱えきれなかった。
蒸気配管の立ち上がり、補助熱源の監視、乾燥炉の運転確認。
現場は、個人の内面とは無関係に進む。
だからこそレオも、作業着に着替えて通路を歩いているあいだは、ほとんど平常でいられた。
だが、完全に切り替えられるわけではない。
ヒビキ用スーツの設計レビュー中、呼吸回復補助の項目を説明しながら、レオは昨夜のイオリの声を思い出していた。
消えない気がする。
その言葉が、図面の裏側に残っている。
ゴウジが腕を組んだまま言う。
「体幹側を厚くしすぎると、動きが鈍る」
「そこは可動域を切り分けます。保持は必要ですが、固定はしません」
レオは即答した。
現実側の彼は、まだ十分に技術者だった。
「呼吸補助を入れる理由は?」
「保持の崩れと回復の乱れが同時に起きるからです。そこを切り分けて考えると、戻れなくなる」
ゴウジは少しだけ目を細めた。
「前より、考え方が深くなったな」
その言葉に、レオは曖昧に頷いた。
実際には、「深くなった」のではなく、「届いた」に近い。
イオリの感覚が入ってから、設計はたしかに変わった。
昼休み、アカリが缶コーヒーを片手に近づいてきた。
「レオ先輩、なんか今日こわい顔してます」
「してる?」
「してます。怒ってるみたい」
レオは一瞬だけ黙った。
怒っているのかもしれないと思った。
彼女を一人にしてきた過去に。
理解できないものを理解しないままにした周囲に。
そして、そんな時間の長さを変えられない自分にも。
「……少し、腹は立ってるかもしれない」
現実へ引き戻されるたび、イオリへの気持ちだけが置いていかれるようで苦しかった。二つの時間を同時には守れない気がした。
アカリは珍しく軽口を挟まず、レオの顔を見た。
その目つきが、彼の怒りがただの苛立ちではないと分かっている顔だった。