第76話
名前を呼ばれる
売店の前で、カレンは紙コップを二つ持って待っていた。
「今日は先に買っちゃいました」
「ありがとうございます」
自然に受け取ってしまってから、レオは少し遅れて気づく。
こういう小さな習慣は、関係を少しずつ近づける。
名前を呼ばれるたび、レオは一瞬だけ現実へ引き戻される。カレンの声は穏やかで、生活の中に根を張っている声だった。対してイオリに呼ばれるとき、自分はもっと深いところで応えてしまう。比べたくはないのに、身体の反応がもう違っていた。だからカレンのやさしさが心地よいほど、返せないことへの罪悪感も育っていく。
「今日は難しい顔してませんね」
「そうですか」
「はい。少しだけ、いい顔です」
照れたようなことを平気で言う人ではないのに、今日はそう言った。
レオは返事に困って、紙コップの縁を見る。
するとカレンが、ふいに名前を呼んだ。
「レオさん」
その呼び方が妙に近くて、彼は少しだけ顔を上げる。
「はい」
「無理してないときのほうが、ちゃんと人の話聞いてますよ」
その指摘は、少し可笑しく、少し痛かった。
最近、自分の心はいつも半歩どこかへ出ている。
白い空間へ向いているぶん、現実で人の声を受ける速度が遅いことがある。
「気をつけます」
「気をつけなくていいです。今日みたいな顔してれば」
そのやりとりのやわらかさに、レオは助けられる。
けれど同時に、この時間へ深く入り込んではいけないような感覚もどこかにある。
カレンは何も知らない。
イオリのことも、白い空間のことも。
知らないまま、現実のやさしさだけで近づいてきている。
そのことが、レオには少しだけ苦しかった。
第77話
装着前夜
再適用前の最終装着確認が行われたのは、雨の匂いが残る夕方だった。
ヒビキは新しい補助スーツの試着に、思っていた以上に緊張していた。
火を出す前から肩が硬い。
レオはそれを見て、声を少しやわらかくする。
「今日は着るところまででいい。無理に気負わなくていい」
「はい」
白い空間でこの話をしたら、イオリはきっと子どもみたいに喜ぶだろう。どの留め具が苦しくないか、どの位置なら火を邪魔しないか、彼女は自分の身体を思い出しながら細かく言ってくるに違いない。そう思うだけで、レオの胸は少しやわらかくなった。現実の装着前夜なのに、彼にとってはふたりで迎える前夜でもあった。
返事は素直だったが、目の奥には焦りが残っている。
それでも、装着が始まるとヒビキは予想以上に丁寧だった。
体幹へ沿う保持層、肩甲側の追従、呼吸を邪魔しない固定。
どれも少しずつ確かめるように動く。
「どうだ」
レオが訊くと、ヒビキは少し考えてから言う。
「……前より、中がばらけない感じがします」
その一言だけで、レオは胸の奥に小さく灯るものを感じた。
まだ出力もしていない。
でも、着た時点で本人が違いを感じ取っている。
それは大きかった。
ゴウジも短く頷く。
「悪くない顔してるな」
ヒビキは照れたように笑った。
その笑顔を見ながら、レオは思う。
ここまで来るのに、どれだけ長かっただろう。
夜に白い空間へ行ったら、まずこのことを伝えたい。
喜んでくれる顔が見たい。
そんなふうに思う自分が、もう隠しようもなく嬉しかった。
第78話
スーツを着た日
試験室の床は乾いていた。
新しいものを身につけた朝だけ、身体は少し自分のものじゃなくなる。
装着の補助を受けながら、ヒビキはじっと立っていた。肩、背中、腹。締めつけではない。押し込まれる感じでもない。外側から静かに輪郭を揃えられていく感じだった。
普段の保温具とは違う。
温かいわけではない。
先に整う。
腕を回す。息を吸う。軽く吐く。
いつもなら、火を出す前には胸のどこかが先走る。今日はそれが少ない。代わりに、内側がほどけずに残っている。
レオが端末を見ながら言う。
「苦しいところがあったら言って」
ヒビキはもう一度、深く息を吸った。
苦しくない。
妙に、散らない。
合図が出る。姿勢を落とす。
火を出す前の数秒が、これまでより長く感じた。火力を溜めるというより、内側の配置が崩れていないことを確かめているみたいだった。
吐く。
火は出た。
違ったのは、そのあとだった。
いつもなら、吐いた直後に何かが広がって、すぐ薄くなる。耳の先や指先へばらけて、中心が追いつかない。今日は、その崩れが来ない。胸の下あたりに残るものがある。大きな熱ではない。けれど、持っていかれていない。
思わず口が開いた。
「……中がばらけない感じがします」
言ってから、自分で少し驚いた。
強い、でもない。
出せる、でもない。
そんな言葉が先に出たのは初めてだった。
中がばらけない。
それは火の強さの話ではなかった。順番の話だった。今までは火が先で、身体はあとから追いかけていた。今日は逆だった。身体のほうが先に整って、その上に火が乗った。
レオは少しだけ顔を上げた。
何か言いかけて、言わなかった。
代わりに記録だけを取る。
試験が終わり、外したあとも少しだけ名残があった。
裸になったあとも、さっきまでの整い方を身体が覚えている。
ヒビキは自分の手を見た。
火を出せる手だった。
でも今日は、それだけじゃない感じが残った。
第79話
言葉より先に
白い空間へ入ると、イオリはすぐにレオの顔を見て笑った。
「いいことあった」
問いではなく、もう言い当てている。
「分かる?」
喜びながら、ふたりはその夜も少し作業をした。イオリは袖をつかんだまま、留め具の向きや腹部の圧を言い、レオは片手で操作卓を開く。近い。近すぎる。けれど手を離してまで距離を取りたいとは、どちらも思わなかった。親密さと共同作業が、もう自然に混ざってしまっていた。
「分かるよ。きょう、足音がちがう」
その感覚の鋭さに、レオは笑ってしまう。
それから、装着確認でヒビキが口にした言葉をそのまま伝えた。
中がばらけない感じ。
着た時点で分かった違い。
イオリはじっと聞いていたが、途中でとうとう我慢できなくなったみたいに、レオの袖を強くつかんだ。
「それ、すごい」
「うん」
「だって、それ、まだ火を出してないのに、もう身体が分かったってことでしょ」
レオは頷いた。
その通りだった。
イオリの目が、わずかに潤む。
でも今日は泣かなかった。
代わりに、言葉より先に身体が動いていた。
袖をつかんだまま、少しだけ近づく。
肩が触れる。
その距離の近さに、レオは息を詰める。
「レオ」
「うん」
「わたし、きょう、すごくうれしい」
「僕も」
その返事をした瞬間、イオリは少しだけ照れたように笑った。
そして、そのまま袖を放さなかった。
もう、研究だけの距離ではない。
そう思っても、怖さより先に幸福が来た。
第80話
生活の中へ来る人
翌日、カレンは研究室と工場のあいだの共有ラウンジでレオを見つけた。
「ちゃんと昼、食べました?」
開口一番がそれだったので、レオは少し笑う。
「一応」
カレンが渡してくる食事や飲み物は、レオの生活を確実に支えていた。もし彼女がいなければ、仕事に没頭したまま何かを削っていた日も多かったはずだ。だからありがたさは本物だった。ただ、その本物のありがたさと、夜ごとイオリと同じ図面に手をかけるときの高鳴りは、やはり別の感情だった。レオはその違いを、最近ますますはっきり感じる。
「一応じゃなくて、ちゃんと」
そう言いながら、彼女は売店の袋を机へ置いた。
簡単なパンと、まだ少し温かいスープ。
「もらいすぎでは」
「余分に買っただけです」
それ以上は言わない。
押しつけず、でも手を引かない。
カレンはそういう近づき方をする。
レオは礼を言ってスープを開ける。
温かさが現実の手ざわりとして戻ってくる。
白い空間の幸福とは別の、生活の温度だった。
「最近、前より少し顔色いいですね」
カレンがそう言った。
「そうですか」
「はい。何か進んでる顔してます」
その見方が鋭くて、少し驚く。
たしかに進んでいる。
けれど、その中心にあるものを彼女は知らない。
「進んでるなら、よかったです」
そう言うしかない自分を、レオは少しだけ情けなく思った。
カレンは近い。
でも、自分は心の底で彼女を見ていない。
そのことを、最近はますます自覚する。
それでも、こうして現実の食事を渡してくれる人がいるのはありがたかった。
ありがたいからこそ、なおさら苦い。