現実で会いに行くために
第106話〜第110話では、レオがいったん現実へ戻ろうとして始まりかけた関係に、
決定的な届かなさを見出します。
そしてその届かなさの先で、レオはようやく、
白い空間で失ったイオリを「現実で探しに行く」という方向へ踏み出します。
ここで描かれるのは、劇的な破局ではありません。
むしろ、成立しているのに深くは繋がらない関係の静かな痛みです。
その痛みを通って初めて、レオは自分が本当に会いに行くべき相手を見失っていなかったと知ります。
第106話:ちゃんと成立しているのに
カレンとの関係は穏やかに成立しています。だからこそ、その奥まで届かないことがレオにははっきり分かってしまいます。
カレンと過ごす時間は、たしかに悪いものではなかった。
仕事帰りに少しだけ茶を飲み、
工場の愚痴ではない範囲で疲れを言葉にし合い、
互いに踏み込みすぎず、でも他人のままでもいない。
会話は成立していたし、気まずさもない。
それは、レオが一度は戻ろうとした「現実らしい関係」そのものに見えた。
カレンはやさしい。
現実の時間をちゃんと生きていて、相手の疲れにも気づける。
仕事の現場を分かり、レオの忙しさを必要以上に浪漫化もしない。
そういう意味では、むしろとても健全な相手だった。
だからこそ、レオは余計に苦しかった。
目の前にある関係は、壊れていない。
むしろ穏やかに始まりかけている。
それなのに、自分の深いところがそこへ届いていないことを、
もうごまかせなくなっていた。
カレンと向かい合って話しているとき、
レオはちゃんと相槌を打ち、言葉を返し、時には少し笑う。
けれどその一方で、心のどこかはいつも、
白い解析空間の静けさや、
イオリが袖へ触れていたときの温度を思い出していた。
比べてはいけない、と何度も思った。
現実の関係と、あの異常な白さの中で生まれた関係を、同じ尺度で測るほうが間違っている。
そう分かっているのに、身体は正直だった。
カレンの前では、心が落ち着くというより、きちんと振る舞える。
イオリの前では、振る舞う前に、もう深いところが先に触れていた。
その差は、もう小さな違和感では済まなかった。
「レオさん、今日ちょっと静かですね」
カレンが、やわらかくそう言った。
レオは少しだけ笑って、
「少し考えごとしてて」と返す。
嘘ではない。
でも、本当のことは言っていない。
本当は、自分がいまここに座っていながら、
ここにいないと知っていることを考えていた。
カレンはその返答に、それ以上踏み込まない。
その距離感もまた、やさしかった。
けれど、そのやさしさが届く場所と、
レオがいま失って苦しんでいる場所が、
微妙にずれていることも分かってしまう。
関係は成立している。
でも、深くは通じない。
その事実が、レオには何よりも静かで決定的だった。
第107話:届かないやさしさ
カレンは何も悪くありません。それでもレオは、この関係を続けることが相手への不誠実になると知ります。
その数日後、カレンと再び会ったとき、レオははっきりと理解した。
この関係を続けることは、自分を現実へ戻すための練習にはなるかもしれない。
けれど、誰かとちゃんと向き合うという意味では、
むしろカレンに対して不誠実になる。
カレンは、レオの曖昧さに気づいていた。
それでも急かさず、こちらのペースを尊重してくれていた。
その配慮があるからこそ、レオはなおさら逃げられなかった。
「レオさんって、誰かのことをずっと考えてるみたいな顔するときありますよね」
ふいにそう言われて、レオはカップを持つ手を止めた。
声色は責めるものではない。
ただ、見えていることを静かに差し出してきただけだった。
「……そう見えますか」
「見えます」
カレンは少しだけ笑ったが、その笑いの奥には無理に明るくしない誠実さがあった。
「たぶん、私じゃないんだろうなっていうのも、なんとなく」
その一言に、レオは胸の奥が鈍く痛んだ。
カレンは、すでに気づいている。
自分がここにいても、心の中心は別の場所を向いていることを。
それでも彼女は、怒るでもなく、詰め寄るでもなく、
ただ事実としてそこに置いた。
「ごめんなさい」
レオの口から出たのは、まずその言葉だった。
カレンはゆっくり首を振る。
「まだ何も始まってないから、謝らなくてもいいですよ」
その言い方はやさしくて、でも少しだけ切なかった。
始まっていない。
たしかにそうだ。
けれど、始まりかけていたものがあったからこそ、この会話は生まれている。
レオはそこで、自分が現実に戻ろうとしていたことを否定はしなかった。
それは本当だった。
でも、戻ろうとすることと、誰かときちんと関係を結ぶことは、同じではない。
カレンを足場のように使うことだけは、してはいけない。
そう思った瞬間、レオの中で何かが決まった。
ここは、きちんと終わらせなければいけない。
第108話:別れを告げる
レオは、成立しかけていたカレンとの関係に、自分の言葉で終わりを告げます。
レオは、次にカレンと会ったとき、自分から切り出した。
工場敷地の外れにある、小さな休憩スペース。
夕方の光が少しだけ傾いていて、風が配管の向こうを抜けていく。
現実の場所としては、あまりにも普通だった。
だからこそ、この会話をするにはちょうどよかった。
「カレンさん」
「はい」
「このまま、近づくのはやめたほうがいいと思います」
カレンは驚かなかった。
たぶん、すでにそうなる予感は持っていたのだろう。
レオは続ける。
「ちゃんと話せるし、一緒にいて楽じゃないわけでもないです。
でも、それだけで進めるのは違う」
彼は慎重に言葉を選んだ。
熱、などという語はここでは使えない。
それはカレンにとって不自然だし、彼女の知らない場所の言葉だからだ。
「自分でも、戻ろうとしてたんだと思います。生活とか、現実の側へ。
でも、誰かとちゃんと向き合うことと、それは別でした」
カレンは静かに聞いていた。
そしてしばらくしてから、小さく息をつく。
「そうだろうな、とは思ってました」
その言葉は痛かったが、救いでもあった。
彼女は現実を見ている。
そしてその現実を、必要以上に飾らない。
「ごめんなさい」
今度の謝罪は、さっきより少し深かった。
カレンは首を振る。
「謝らなくていいです、って言いたいですけど……まあ、少しは謝ってもらっていいかもしれません」
そう言って、ほんの少しだけ笑った。
その笑いに、レオは救われると同時に、いっそう胸が痛んだ。
「でも、ちゃんと止まってくれてよかったです」
レオはその言葉に、深く頷くしかなかった。
ここで終わらせることは、カレンのためでもあり、自分のためでもある。
成立しているのに深くは通じない関係を、
そのまま曖昧に延ばすことだけはしたくなかった。
会話の終わりに、カレンは静かに言った。
「たぶんレオさん、会いに行かなきゃいけない相手がいるんですよね」
レオは、その言葉にすぐには返せなかった。
けれど否定もしなかった。
カレンはもう、それ以上何も聞かなかった。
その聞かなさまで含めて、現実的なやさしさを持つ人だった。
だからこそレオは、その場を去ったあと、
終わった関係よりも、これから行かなければならない場所のことを強く意識し始めていた。
第109話:記録のほつれをたどる
レオはついに、イオリを現実で探すため、記録・ログ・住所情報の断片を本格的にたどり始めます。
カレンとの関係を終わらせたあと、レオの動きは迷いなく変わった。
現実へ戻るための仮の足場を失ったことで、
逆に、自分が本当に向かうべき方向だけがはっきりしたのだ。
開発室に戻ったレオは、ヒビキ再適用の準備を進めながら、
空いた時間をすべて古い記録の掘り起こしに注ぎ込んだ。
匿名記録の公開版。
研究補助登録時の断片ログ。
古い閉架資料の整理台帳。
若年研究補助仮IDの移送記録。
住所欄の欠損した旧紙台帳。
今までは、これらは「彼女を理解するための資料」だった。
けれど今は違う。
現実で会いに行くための手がかりだ。
レオは大学時代の保存アーカイブまで खोलき、旧フォーマットの住所転記欄を拡大表示した。
そこには消えかけた文字列がいくつか残っている。
タシュレント州。
S町。
セクターA-17。
完全な住所ではない。
だが、今まで断片だったものが初めて地理情報としてつながった。
「……いた」
レオは、小さくそう呟いた。
もちろん、そこに今もイオリ本人がいるとはまだ限らない。
けれど、記録の書き手が現実に存在していた場所としては、十分に強い情報だった。
さらに、旧住民登録連携の参照メモを辿ると、
そのセクターに若年研究補助登録個体の移送履歴があることも見えてくる。
しかも時期が、匿名記録の後期とほぼ重なっていた。
白い空間で出会ったイオリ。
記録を書いた狐系の少女。
そして現実の住所断片。
それらが、ついに一本の道になり始めていた。
レオはその夜、白い解析空間には入らなかった。
正確には、入れなかった。
もう待つだけではいけないと知ったからだ。
代わりに、机の上へ地図と記録を広げ、
現実の移動手段と申請手順を確認する。
それは技術者の段取りに似ていた。
ただ対象が、装置や試験ではなく、ひとりの存在になっただけだった。
イオリは、もう白い空間の中だけで追う相手ではない。
現実の地名を持ち、住所の断片を持つ存在として、
ついにレオの前に立ち始めていた。
第110話:会いに行くと決める
レオは、ついに現実のイオリへ会いに行くことを、自分の人生の次の行動として決めます。
第110話の夜、レオの机の上には三つのものが並んでいた。
ヒビキ再適用の準備資料。
匿名記録の複写。
タシュレント州S町セクターA-17の断片住所メモ。
仕事と、記録と、現実。
それらがいま、同じ机の上に載っている。
レオは、その光景をしばらく黙って見ていた。
ここまで長かった。
白い解析空間で熱を追い、
不在に立ち尽くし、
現実へ戻ろうとして失敗し、
カレンとの関係を終わらせ、
それでも残ったものだけを見た結果、
ついに自分が何をするべきかが、はっきり言葉になった。
行くしかない。
工学者としての好奇心だけでは、もう説明できない。
恋だけでもない。
記録の書き手への敬意だけでもない。
その全部が重なったまま、
それでも最終的にはきわめて単純な願いへ収束していた。
イオリに、現実で会いたい。
レオは移動申請画面を開き、
タシュレント州方面への長距離移動ルートを確認する。
乗り継ぎ、研究協力名目での外出申請、工場側の調整。
技術者らしく、必要な手順をひとつずつ並べていく。
海外探索。
以前なら、そんな言葉を自分の人生に当てはめるとは思わなかった。
けれど今は、むしろそれ以外の選択肢のほうが不自然だった。
タシュレント州S町セクターA-17。
その文字列は、まだ少し遠い。
でも遠いからこそ、本物だった。
白い空間ではなく、現実の地図の中に存在する場所。
そこへ、自分は行ける。
レオは最後に、匿名記録の一頁を開いた。
体幹が先に薄くなること。
末端にだけ感覚が残ること。
自分の熱を見失う順番。
それを必死に書き残した少女の筆跡が、紙の上にある。
白い空間のイオリは、今夜も来ない。
けれど、もうただ待つだけでは終わらせない。
レオは、静かに立ち上がった。
「会いに行く」
その言葉は、部屋の中で驚くほどまっすぐ響いた。
誰に聞かせるためでもない。
けれど、自分の人生の向きを変えるには十分な一言だった。
第110話の終わりで、レオはついに決める。
白い空間で失ったイオリではなく、
現実に生きたイオリへ会いに行く。
タシュレント州S町セクターA-17へ向かう準備を始める。
不在は、ここで終わらない。
でも、待つだけの不在はもう終わる。