第121話
窓辺の時間
それが土地の話なのか、いまの自分のことなのか、レオには分からなかった。
分からないまま、それでいい気もした。
若い頃の彼女も、すべてを説明しきる人ではなかった。
むしろ言葉の外側にある感覚を、先に掴んでしまう人だったのだろう。
水差しの残りを見て、コップへ少しずつ移す。
椅子の位置を直し、毛布の端を整える。
そういう小さな動作ばかりをしているうちに、自分の手が意外なくらい自然にやさしく動くことにレオは気づいた。
技術者としての正確さと、壊したくない相手へ触れるためらい。
その二つが、同じ指先の中にある。
現場で装置を扱うときにも、危ういものへ触れる緊張はある。
だが、ここでの緊張はまったく別の種類だった。
間違えたら壊れるのではない。すでに弱っている相手へ、自分の焦りを押しつけてしまうことが怖かった。
「レオ」
呼ばれて顔を上げると、イオリがこちらを見ていた。
「うん」と応じると、それだけで少し安心したように目を細める。
「いるね」
「います」
その確認が何度必要でも、レオは面倒だとは思わなかった。
むしろ、必要とされていること自体が痛いほどありがたかった。
午後の光が少し傾く。
レオは窓辺の影の形が変わっていくのを見ながら、ここにいる時間を雑に扱いたくないと思った。
長い七十年のすべてを埋めることはできない。
それでも、いま重なっている数時間だけは、きちんと受け取れる。
話さない時間にも、意味はあった。
同じ景色を見て、同じ風を聞き、同じ部屋の温度の中にいる。
その単純な共有のほうが、言葉より深いこともあるのだと、レオは静かに知っていった。
第122話
目を覚ますたび
その夜から、イオリは眠っている時間が少し増えた。
目を開けていても、焦点が合うまでに時間がかかる。
けれどレオの声には、まだ反応した。
「イオリ」
名前を呼ぶと、遅れてでも目が向く。
その遅れさえ、レオには尊かった。
向けられるまでの数秒に、身体がまだこちら側へ戻ろうとしているのが分かるからだ。
待ち続けていたものへ触れたことで、張っていた糸が少し緩んだのかもしれない。
そう思うと、眠りが深くなることさえ、ただ残酷には見えなかった。
もう無理をしなくていいのだと、身体のほうが先に知っているようだった。
眠っている時間が増えても、レオの声にはまだ目を向ける。
その細い反応が、かえって胸を強く打った。
人は弱るとき、すべてが一様に薄くなるわけではない。
残るものだけが、むしろくっきりすることがある。
イオリにとって、そのひとつが自分の声なのだと、そこではっきり分かった。
レオは椅子の位置を少しずつ整え、水差しの残りを見て、毛布の端を直す。
そういう小さな動作ばかりをしていた。
技術者として手順を守るような正確さで、でも指先だけはひどくやさしくなる。
そのやさしさが、自分でも意外なくらい自然に出ることに、レオは何も言わず驚いていた。
イオリが目を閉じたまま、かすかに言う。
「いる?」
「います」
「よかった」
それだけで、また眠りへ落ちていく。
短い会話なのに、ひどく深く胸へ残る。
夜半、世話係が様子を見に来た。
レオが椅子から立つと、相手は小声で言う。
「今日はよく眠っています」
「そうですか」
「ここ数日は浅かったので……」
世話係はそこで言葉を選ぶように間を置いた。
「安心しているのかもしれません」
レオは返事をしなかった。
返せば、その言葉を自分の都合で受け取ってしまいそうだった。
けれど胸の奥では、たしかに何かが静かに沈んでいく感覚があった。
安心、という言葉が、ようやくこの部屋に似合うようになってきている。
朝になっても、イオリは長くは起きられなかった。
けれど、何度か目を開けるたびに、レオがいることだけはたしかめた。
そのたびに、ほんの少しだけ口元がやわらぐ。
昼前、世話係が窓を少し開ける。
海のほうから風が入り、部屋の薬草の匂いを薄く揺らした。
イオリはその風に耳を動かし、目を閉じたまま小さく息を吐く。
「いい風」
「はい」
「ここ、悪くなかった」
それは土地のことを言っているのか、長く過ごしてきた人生のことを言っているのか、レオには分からなかった。
分からないまま、それを受け取るしかない。
午後、甥が短い面会に来た。
ベッド脇でしゃがみ込み、昔から変わらない呼び方で「伯母さん」と声をかける。
イオリは目を開けて甥を見ると、少し考えるようにしてから小さくうなずいた。
「今日は、いい顔してる」
と甥が言う。
「だって……待ってたの、来たから」
その一言に、甥は黙った。
レオも、何も言えなかった。
家族の前でそれを言わせてしまう痛みと、ようやく言葉になった安堵が同時に胸へ来る。
甥が帰る前、玄関先でレオに言った。
「来てくれて、よかったです」
「この人、長く待つのは得意でも、諦めるのは下手だったので」
その言い方に、レオは少しだけ救われた。
待たせたことの重さは消えない。
けれど待っていたことそのものが、誰かにとっても自然な事実だったのだと知るだけで、罪悪感の形が少し変わる。
夜になると、イオリは窓の外を見たいとは言わなくなった。
代わりに、レオの手を探す回数が増える。
見える景色が減っていくぶん、触れられるものの輪郭だけが濃くなっていくみたいだった。
「ここ」
レオが手を差し出すと、イオリは骨ばった指先でそれをたしかめる。
握るというより、位置を覚えるような触れ方だった。
「ちゃんと、いる」
「います」
「うん」
窓の外へ行けない日だった。
けれどそのぶん、部屋の中にあるものの位置が、前日までよりずっとはっきりした。
風の音、寝台のきしみ、手の温度、名前を呼ぶ声。
失われていくものと、残っていくものが、同時に輪郭を持ちはじめていた。
その日の終わり、眠りはさらに深くなった。
呼べばわずかに反応する。けれど目を開けるところまでは戻らない。
レオは椅子へ座ったまま、毛布の端をそっと直す。
会えたね、と誰かが簡単に言ってしまうには、ここにある時間はあまりにも複雑だった。
それでも、会えたことだけは確かだった。
そして、その確かさがあるからこそ、いま目の前で深くなっていく眠りを、ただ残酷とだけは呼ばずに見ていられた。
第123話
眠りの深さ
その夜、イオリは長く眠った。
ときどき呼吸が浅くなり、レオは思わず椅子から身を乗り出す。
けれどしばらくすると、またかすかな規則が戻る。
その繰り返しを見ているうちに、時間の感覚が曖昧になっていった。
深夜、世話係が湯を持ってきた。
「少し休んでください」と言われても、レオは首を振る。
眠るのが怖いのではない。
ただ、この部屋の時間を自分だけ切り離してしまうことができなかった。
明け方近く、イオリが目を開けた。
焦点はゆっくりしか合わない。
それでも、レオのいる方向へたしかに視線が向く。
「朝?」
「もう少しで」
「そう」
そこで会話は終わるかと思った。
けれどイオリは少し息を整えてから、途切れ途切れに言った。
「レオ」
「はい」
「あなた……これからも、見るんだよ」
その言葉の意味を、レオはすぐに理解した。
熱のことだけではない。
見えにくいものを、ないことにしないこと。
人の身体の崩れも、現場で言葉にならない違和感も、誰かが見たのに消されてきたものも、ぜんぶ含めて。
「見ます」
レオがそう答えると、イオリはほんの少し口元をやわらげた。
それが笑みだったのか、息の抜け方がそう見えただけなのか、判然としないほどかすかな動きだった。
それでも、レオには十分だった。
「うん。……それなら、いい」
そのあと、深い深い眠りへ落ちた。
レオはその寝顔を見ながら、未来の約束というものが、こんなふうに静かな声で手渡されることもあるのだと知った。
第124話
帰国の機内
帰国の機内で、レオはほとんど眠れなかった。泣き疲れたわけでもない。逆に、涙はあまり出ない。喪失が大きすぎると、人は感情より先に体だけを固くするのだと知った。窓の外の雲が、また白い床を思い出させる。
それでも以前と違うのは、空白だけではないことだ。会えた。最後までそばにいられた。返したかったものを返せた。その事実が、壊れたところへ小さな骨組みを残していた。
帰国してからのレオは、以前より静かになったと言われても否定できなかった。感情が薄くなったのではない。大きすぎるものが底へ沈み、普段の表情では見えにくくなっただけだ。仕事へ戻るほど、その底の重さは判断の仕方や言葉の選び方にじわじわ出てくる。
国外で受け取ってきたノートや記憶は、私人の宝物で終わらせたくないし、雑に職場資料へ溶かしたくもない。その中間の難しい位置に、自分の仕事があるのだとレオは感じ始めていた。残すとは、ただ保管することではなく、次に使える形へ整えていくことなのだ。
戻ってきた職場で、レオは以前より人の笑い方を注意深く見るようになっていた。明るさそのものではなく、その明るさがどれだけ薄い膜の上へ載っているかを。失ったあとで働き続けた経験が、他人の無理の見え方まで少し変えてしまったのだと思う。
仕事へ戻ることは回復と同じではない。レオ自身、その違いをよく分かっていた。けれど、戻らなければ沈んだものがそのまま腐る気もした。だから彼は朝の門をくぐり、机へ向かい、ログを開く。その手順の反復でしか、現実へ接続し直せない時期だった。
第125話
戻ってきた朝
門の前の空気は、春なのに少し冷えていた。
戻ってきた人間は、声より先に目で分かることがある。
朝、レオが門をくぐった。顔色はまだよくない。痩せてもいる。だが、何かが前と違った。
ゴウジはライン脇の通路から見ていた。
崩れる前の人間の目は、奥へ詰める。周りを見ているようで、実際は内側の一点へ寄っていく。戻ってきたあとの目は少し違う。焦点が外へ開く。レオの目は後者だった。
歩く速さは前より少し遅い。
だが、遅いまま雑になっていない。
書類を受け取る手つきも、通路を譲る間も、きれいに残っている。
声はかけなかった。
かける必要がないように見えた。
戻ってきた朝に必要なのは歓迎ではなく、いつもの通路かもしれない。
同じころ、ナオキは廊下の端から見ていた。
内圧の質が変わっていた。高い圧が悪いわけではない。仕事になる圧もある。だが崩れる前の圧は尖る。自分の中だけで循環し、逃げ場を持たない。今のレオは、以前より低い。低いのに、抜けていない。
ナオキは端末へ視線を落とし、また上げた。
特に送る言葉はない。
戻った。それで足りる。
ゴウジは作業開始の合図を聞いた。
ナオキは次の会議時刻を確認した。
どちらも、何も言わなかった。
止められなかったことは変わらない。
どうしようもなかったという受け取り方も、変わらない。
それでも、門をくぐったあとの人間の目が前と違うことだけは、黙っていても見えた。