熱が触れた、その瞬間。56話~60話

少しだけ変わる距離

それからの白い解析空間では、ふたりのあいだの沈黙が少しずつ変わっていった。

前は、説明の切れ目に生まれる沈黙だった。いまは違う。何も言わなくても離れなくていいと分かった者どうしの、落ち着いた静けさだった。

イオリは、話の途中で以前より自然にレオの近くへ来るようになった。袖をつまむ。肩が触れないぎりぎりの位置で止まる。言葉より先に身体が動くのは、もともと彼女の癖だったが、最近はそのためらいが少ない。

レオはその変化を、ただ嬉しいと思うだけでは済ませなかった。どこかで必ず観察してしまう。呼吸の浅さが減ったこと。視線を逸らしてから戻すまでの時間が短くなったこと。自分のそばで話すとき、彼女の声が少し低く、安定すること。

それらは全部、研究メモには書かない種類の変化だった。けれど見落とせない。見落としたくもなかった。

「レオ、また見てる」

イオリが少し笑う。

「そんなに分かりやすい?」

「うん。考えてるときの顔してる」

レオは小さく息をこぼした。隠せていないらしい。

「……君が前より安心してるように見えたから」

イオリはその言葉を聞いて、少しだけ目を丸くした。それから、ほんの少しだけ近づく。

「してるよ」

短い返事だった。けれど、それだけで十分だった。

昼のほうが難しい

昼の研究室では、むしろレオのほうが落ち着かなかった。

イオリとの距離が変わったあとも、仕事は止まらない。補助条件の比較、講義資料の修正、再適用の導入資料づくり。やるべきことはむしろ増えていた。

それ自体は問題ない。レオは手を動かせるし、判断も鈍っていない。けれど、昼の現実側にいるときほど、夜の白い空間のことが妙にはっきり思い出されるようになった。

誰かに呼ばれたとき、一瞬だけイオリの声と聞き違えそうになる。端末へ触れた指先に小さな痺れが走るたび、彼女のそばで緊張したときの身体反応を思い出す。ごく些細なずれだったが、それが昼のほうでは意外に扱いづらい。

会議のあと、アカリが資料の束を抱えて近づいてきた。

「レオさん、今日は少し上の空ですね」

「そう見える?」

「少しだけ。でも、判断はいつもより速いです」

その指摘に、レオは返事に困った。まさにその通りだったからだ。頭は冴えているのに、心の重心だけが別の場所へ引かれている。そんな感覚だった。

「……考えることが増えただけ」

レオがそう言うと、アカリはそれ以上は踏み込まず、ただ柔らかく頷いた。

踏み込まれないことが、いまはありがたかった。

記録より先に

その夜、レオは白い空間で、技術の話を始める前にイオリを見ていた。

現れる位置はもう決まっている。輪郭の立ち上がりも安定している。けれど、見るたびに少しずつ違う。耳先の角度、視線の置き方、袖を持つ指のかたち。そういう細部が、記録の書き手という輪郭より先に、ひとりの相手として彼女を立ち上がらせる。

「今日は、資料見せないの?」

イオリがそう訊いた。

レオは少しだけ笑う。

「そのつもりで来た」

「でも、まだ出してない」

白い床の上で、イオリは少しだけ首を傾げる。

レオは答えるまでに、ほんの少し時間がかかった。

「先に、君の顔を見てた」

イオリは一瞬だけ静かになって、それから、困ったように笑った。

「そういうの、急に言う」

責めているわけではない。その声に、照れと安堵が混ざっているのをレオは聞き取った。

以前なら、自分はまず記録の整合や図の正しさを確かめていただろう。いまは違う。資料や理論より先に、彼女がちゃんとここにいるかを確かめたくなる。

その順番の変化が、レオには妙に大きかった。

不在を想像する

白い解析空間で向かい合っていると、ふいに、いなくなる側の白さが頭をよぎることがあった。

何もない白。返事のない白。呼んでも埋まらない空白。

それはまだ起きていないことなのに、レオはときどき、その可能性を考えてしまう。関係が近くなるほど、不在は単なる欠席では済まなくなる。だからこそ、想像してしまうのかもしれなかった。

イオリは、そんなレオの沈黙に気づいたらしい。

「どうしたの」

「……少しだけ、考えてた」

「何を?」

レオはすぐには言えなかった。いなくなるかもしれないと想像していた、とは、あまりにも縁起が悪く、しかも正直すぎる気がしたからだ。

それでも、隠したくはなかった。

「君がここに来なくなることを、少し」

イオリは黙った。驚いたようでもあり、でも逃げるような沈黙ではない。

「まだ、そんなことないよ」

そう言ってから、彼女は少しだけレオへ寄った。

「でも、考えるんだ」

「考える」

レオは素直に頷く。

イオリはしばらく彼を見て、それから小さく息を吐いた。

「……じゃあ、いなくならないうちに、もっと話したい」

その言い方に、レオは胸の奥をそっと掴まれるような気持ちになった。軽い約束ではない。いまある時間を、ちゃんと使おうとする者の声だった。

白い空間の端で

その夜の終わり、ふたりは白い空間の端のほうまで歩いた。

解析のためには意味のない移動だった。中央に立っていても話はできるし、表示も見える。それでも、端へ行ってみようとイオリが言った。

「なんで端?」

レオが訊くと、イオリは少し考えてから答える。

「最初に、私が出てきたところだから」

その言葉に、レオは何も言えなくなった。

白い空間の端。小さな揺らぎから輪郭が立ち上がり、まだ記録の向こう側にいた彼女が、少しずつこちらへ来た場所。そこはいまでは、ただの表示位置ではなく、ふたりにとっての始まりに近い場所になっていた。

イオリはその位置で立ち止まり、白い床を見た。

「ここ、前はこわかった」

「いまは?」

「まだ少し、こわい。でも、ひとりじゃない」

レオは、その言葉を受けて、ごく自然に一歩だけ近づいた。肩は触れない。けれど、以前よりずっと近い。呼吸がわずかに混ざる距離だった。

「僕も、最初はここがただの観測点だと思ってた」

イオリが顔を上げる。

「いまは?」

レオは少しだけ迷ってから言う。

「……君に会う場所だと思ってる」

イオリは一瞬だけ目を見開いて、それから、ほんとうに小さく笑った。

白い空間の端には、相変わらず何もない。壁もなく、景色もない。ただ均質な白が続いているだけだ。それなのに、その場所だけはもう空白には見えなかった。

始まりを知っている場所は、ただの白では終わらないのだと、レオは静かに思った。

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