第110話
カレンのノック
夜、寮のドアが二度だけ控えめに叩かれた。
レオはしばらく動けず、三度目が来る前にようやく起き上がった。
ドアの向こうにはカレンがいた。紙袋を持っている。
髪が少し乱れていて、ここまで急いで来たのだと分かった。
「起こしましたか」
「……起きてました」
カレンは袋を差し出した。
「匂いの強くないものにしました。食べられそうなら」
「ありがとうございます」
受け取る。袋の底がまだ温かい。
それだけで、会話は切れかけた。
けれどカレンは帰らなかった。玄関の前に立ったまま、目だけがレオの顔色を確かめている。踏み込むべきではないと分かっていながら、立ち去るにも気持ちが残っている、そんな立ち方だった。
「会社のことは、いま気にしなくていいです」
「そういう問題じゃないんです」
思ったより強い声が出た。
カレンの耳が小さく動く。レオはすぐに目を伏せた。
「……すみません」
「謝らなくていいです」
返事は速かった。
速すぎて、かえって痛かった。
沈黙が落ちる。廊下の向こうで誰かの足音が通り過ぎた。夜の寮独特の、少し乾いた静けさが二人の間へ落ちてくる。
「何があったか、私は知りません」
カレンは静かに言った。
「でも、何もできないままなのは、少しつらいです」
レオは顔を上げた。
責めている声ではなかった。本当にそう思って、ここまで来た声だった。
「……少し休みます」
「はい」
「それしか、今は言えない」
カレンは小さくうなずいた。
「分かりました。じゃあ、今はそれでいいです」
そこで終わればよかったのに、レオはなぜかもう一言だけ足してしまう。
「来なくても、大丈夫です」
言ったあとで、すぐ後悔した。遠ざけたいわけではない。ただ、近くへ来られると、自分の中にまだ別の名前が残りすぎていることを突きつけられる。
カレンは少しだけ目を細めた。
「それ、来るなって意味ですか」
「……違います」
「なら、私が決めます」
その言い方は強くないのに、妙にまっすぐだった。レオは返す言葉を失う。
帰り際、彼女は振り返らずに言った。
「また来ます」
ドアが閉まったあとも、袋のぬくもりだけが手の中に残った。
それがありがたくて、遠かった。現実にいる相手のやさしさへ、今の自分の心がまだうまく手を伸ばせない。そのことだけが、じわじわと遅れて痛んだ。
部屋へ戻って袋を開けると、粥と、味の薄いスープと、甘すぎない飲み物が入っていた。どれも今の自分でも口にできそうなものばかりだ。そこまで考えて選んだのだと分かる。ありがたい、と思う。思うのに、そのありがたさへまっすぐ届かない自分がいる。レオは椅子へ腰を下ろし、まだ温かい容器に指先を当てたまま、しばらく動けなかった。
カレンは何も知らない。イオリのことも、白い床のことも、あの空間で何を受け取ってしまったのかも知らない。それでもここへ来た。知らないまま、自分にできる範囲だけを持ってきた。その距離の正しさが分かるからこそ、余計に胸が痛んだ。近づけないのは、彼女が足りないからではない。ただ、自分の中の空白がまだ別の形をしているだけだった。
第111話
現実担当の夜
ドアが閉まる音は、思ったより軽かった。
言い返したあとの胸だけが、少し遅れて熱を持った。
廊下を歩きながら、カレンは一度だけ立ち止まった。
「来なくても大丈夫です」
そう言われた。
「なら、私が決めます」
自分はそう返した。
口にした瞬間、自分でも少し驚いた。もっとやわらかく引くつもりだったのに、今夜は前へ出る言葉が先に出た。
設備棟の夜は、昼より静かだ。
配管の低い音。遠くの換気。壁に残る乾いた熱。
カレンは手すりへ指を置いた。炎系の身体は、出力したあとに残る。外へ火を出さなくても、奥には名残がある。それが自分の身体だ。
だからこそ、届かない相手へ向けるものの扱いが、今夜だけは少し重かった。
レオは現実にいる。
同じ工場にいる。
同じ廊下を歩ける。
温かいものを差し出せば、受け取ることもある。
でも、届く場所と届かない場所がある。
その境目だけが、妙にはっきりしている夜だった。
届かないなら、無意味なのか。
届かなくても、出すことに意味があるのか。
答えは出ない。
ただ、カレンは前から、自分の役を誰かに決められてやってきたわけではなかった。連絡をつなぐ。現場をならす。温かいものを出す。倒れそうな顔色を拾う。そういうことをやると、場が少しだけ戻る。その感じを、自分は知っている。知っているからやる。
誰かのためだけではない。
やらないと、自分の立ち方がずれる。
廊下の曲がり角で、カレンはもう一度だけ深く息を吐いた。胸の奥に残る熱は、まだ消えていない。押しつける熱ではない。かといって、なかったことにもしたくない熱だ。
また来よう、とは声に出さなかった。
でも足は、もう次を決めていた。
第112話
遅い返信
数日遅れて、レオはようやくいくつかの連絡へ返事を書いた。
礼。確認したという報告。必要なデータの依頼。短い文なのに、送信までにひどく時間がかかる。
カレンへの返事は、もっと短かった。
> ありがとう。少し休みます。
送ったあと、レオは画面を見つめたまま動かなかった。
彼女は手を伸ばしてくれている。なのに自分のいちばん深い場所は、そこへ向かない。
そのことが、返したあとでいっそうはっきりする。
数分後、返信が来た。
> 分かりました。返事は大丈夫です。食べられたら教えてください。
レオは親指を止めたまま、結局また何も返せなかった。
「大丈夫です」という文面のやさしさが、いまはかえって痛い。
その夜、アカリにも短く返した。
> 助かります。現場、お願いします。
すぐ既読がついて、返ってきたのは一文だけだった。
> はい。戻る場所は残しておきます。
その言葉に、レオはしばらく息を止めた。
励ましではない。約束に近い言い方だった。
誰も無理に立たせようとしない。それなのに、置いていきもしない。その距離感だけが、いまは救いに近かった。
ゴウジには少し迷ってから電話で返した。文字では出せない間合いがある気がしたからだ。
一コールでつながる。
「……すみません」
開口一番そう言うと、向こうでため息がした。
「その言葉、便利だと思っとるだろ」
「思ってません」
「なら使うな。で、追加条件はあるのか」
その聞き方に、レオは少しだけ救われる。感情の確認より先に、仕事の話を置いてくる。そこに甘えがないわけではないが、レオにとってはありがたい逃げ道でもあった。
「保持層の厚み、もう一段だけ見てほしいです」
「了解。送れ」
会話はそれだけだった。なのに通話を切ったあと、胸の中の張りが少しだけ緩んでいた。レオはようやく、自分が完全に切り離されてはいないのだと理解する。
夜更け、カレンのメッセージ画面をもう一度開いた。
食べられたら教えてください。
その一文に返せる言葉は、ほんとうは何種類もあるはずなのに、どれもいまの自分には過剰だった。結局、未送信のまま「少し食べました」と打って消し、また打って消した。言葉にするだけで、相手のやさしさを受け取る責任が生じる気がして、そこへまだ手が届かなかった。
翌朝、アカリにはもう一度だけ送った。
> 昨日の条件、図にして送ります。
それに対して返ってきたのは、やはり短い文だった。
> はい。急がなくて大丈夫です。
急がなくて大丈夫、という言葉を読んで、レオは少しだけ苦笑した。現場はいつだって急ぐ場所だ。安全のためにも、改善のためにも、決断は早いほうがいい。それでも、今の自分に対してだけは皆が意図的に速度を落としている。その遅さを用意してくれていることが、ありがたく、同時に申し訳なかった。
カレンの画面もまた開いては閉じた。食べられたら教えてください、という一文の中には、押しつけない心配のしかたが出ている。そこへ誠実に返すには、自分がどれだけ受け取れていないかを認めなければならない気がした。未送信のまま残った短文が、夜の端末の中で小さく光っていた。
第113話
戻る場所を残す
送信ボタンを押したあと、画面だけが明るかった。
返事を待たないと決めた言葉ほど、あとで指先に残る。
> 戻る場所は残しておきます
送ったあと、アカリはしばらくそのまま画面を見ていた。既読もつかない。返事も来ない。けれど、それでよかった。今のレオに必要なのは会話じゃない。戻れる事実だけだ。たぶん。
誰かの変化を、消えないように手元へ残しておきたい。
そんな衝動が、自分の中にもあると気づいたのは最近だった。
レオは見えたものをなかったことにしない。自分はそこまで大きくはやらない。ただ、消えそうなものへ小さいラベルを貼る。条件を書く。版を分ける。どこで変わったかを残す。
構造は同じなのかもしれない。
ただ、自分のはもっと小さい。
渡す先も、まだはっきりしない。
午後、若手の報告書へ目を通す。
ひとつ、言い回しが変わっていた。前なら「なんとなく変でした」で終わっていた欄に、「出力後の呼吸回復が遅い条件」と書いてある。笑って流されやすい違和感が、条件の言葉に変わっている。
アカリはそこで少し手を止めた。
見えた。
前より、ちゃんと見えた。
いつもの自分なら軽く言って終わる。今日はそうしなかった。欄外へ短くコメントを入れる。
観察継続。再現条件あれば追加。
それだけ。
見えたものを笑いで動かすのではなく、見えたまま受け取る。
ほんの小さな違いだった。
たぶん本人も、まだ自覚していないくらいの。
終業後、共有フォルダの権限設定をもう一度見直した。レオの階層は閉じない。整理はする。消さない。触れるが、奪わない。その加減を守る。
送った言葉の返事は、やはり来なかった。
でも画面を閉じる前、アカリはもう一度だけその文面を読み返した。
戻る場所。
残しておく。
それで今夜は足りる気がした。
第114話
外国行きの書類
その頃には、レオはようやく、起き上がったまま考え続けられる時間を少しずつ取り戻していた。
けれど戻ってきたのは身体の一部だけで、胸の奥に残る白い床の気配は、まだ薄れていなかった。
何をしに行くのか。
その問いだけが、仕事へ戻ることとも、休み続けることとも別の場所で、ずっと静かに残っていた。
本当は、いなくなった相手の続きを探しに行くのだ。
白い床から消えたあとも、現実のどこかで時間を生きてきたはずの人を、自分の足で追いに行く。そんな理由が会社の書式へ収まるはずがなかった。
レオは何度も申請書の理由欄を思い浮かべた。
私用。資料調査。国外照会。どれも完全な嘘ではない。けれど、どれを書いても、いちばん大事なものだけがきれいにこぼれ落ちる気がした。
戻って二日目、レオは保管庫の奥から古い資料群を引っ張り出した。
匿名の少女の記録、旧目録、戦前戦後の研究者録、地方史、国外移住名簿。断片のような線を、ひとつずつ重ねる。
綴り字が揺れている。
姓が途中で変わっている。
年齢にもずれがある。
だが重ねていくと、ある港町の記録と一族名の揺れが、一本の細い線になって残った。
「……ここか」
独り言は、半分確認だった。
現場で異常ログを拾うときと同じ集中が、自分の中へ戻ってきているのが分かる。見えにくいものを、ないことにしない。その執念だけは、まだ失っていなかった。
申請書の理由欄を前にして、レオは何度も手を止めた。
私用。資料調査。国外訪問。どれも間違いではない。だが本当でもない。結局、書いたのは「国外資料照会および私的調査」だった。言葉は整っているのに、心の中は整わない。
その日の夕方、上司へ休暇申請の相談を持っていく。
書類を見た上司が眉をひそめた。
「国外資料照会?」
「はい」
「急だな」
少しの沈黙のあと、上司は書類を机に置いた。
「止めたい理由はある。だが、止めきれる理由はない顔だな」
レオは何も言わなかった。
言えなかった、のほうが正しい。
「仕事の整理だけつけろ。逃げるなら綺麗に逃げろ」
「逃げる、ですか」
「そう見えるやつもいるって話だ」
上司はそこで目を逸らした。
「それでも行くなら、行ってこい」
レオは小さくうなずいた。
決めた瞬間も、高揚はなかった。ただ、ここで考えているだけでは届かないという感覚だけが、妙に静かに座っていた。
夜、机の上へ旧論文の複写を並べる。
若いイオリの筆跡、欄外の小さな癖、言い切るでもなく、でも見たものを見たと書く姿勢。その紙の前にいると、国外へ行くことが衝動ではなく、むしろ長い遅れのように思えてきた。もっと早く探すべきだったのではないか。もっと早く、現実の側へ手を伸ばすべきだったのではないか。そんな悔いまで一緒に持っていくしかなかった。
寮へ戻る道で、カレンから連絡が来た。
> しばらく見ないと思ったら、また無理してませんか。
レオは通路の手すりの前で立ち止まった。
返信の欄を開いては閉じ、ようやく打つ。
> 少し遠くへ行きます。前から追っていた資料の件です。
既読はすぐについた。
> 仕事で、ですか。
レオはそこでまた指を止める。
仕事だと言い切れば楽だ。仕事ではないと言えば、それはそれで説明が足りない。
> 仕事だけではありません。
送ると、しばらく返事は来なかった。
その沈黙の長さで、カレンがいま何を考えているのか、少しだけ想像できた。聞きたいことはあるだろう。けれど、踏み込める場所ではないとも思っている。彼女はいつもそういうところで、ぎりぎりまで相手の境界を守ろうとする。
やがて短い返事が届く。
> 気をつけてください。
> それしか言えないですけど。
レオは画面を見つめたまま、胸の奥に妙な痛みを覚えた。
カレンは現実にいる。いま手を伸ばせば触れられる距離にいて、自分の不調にも気づいている。なのに自分の足は、その現実から離れるほうへ向いている。
> ありがとうございます。
返したのはそれだけだった。
それ以上書けば、彼女のいる現実へきれいに戻れない自分が、あまりにもはっきりする気がした。
退勤間際、ゴウジが申請書の束を見て言った。
「ほんとに行くのか」
「行きます」
「戻ってこいよ」
レオは顔を上げた。
ぶっきらぼうな声だったが、その短さの中に必要なことは全部入っていた。レオは「はい」とだけ返した。その一語が、いまの自分に言えるいちばん正確な返事だった。
夜、部屋へ戻ってからも、レオは申請書の控えをしばらく見ていた。
理由欄の整った文字は、自分の胸の中とは似ても似つかない。けれど社会の中で動くには、こういう言い換えが必要なのだと頭では分かっていた。技術の報告書でも同じだ。見えている現象を、他人が扱える形へ変換する。その作業は得意なはずだった。なのに今回は、自分の感情だけがどうしても書式へ乗らない。
白い床の記憶はもう薄れていない。
むしろ日常の中へ沈んで、ふとした瞬間に輪郭だけを強める。
ここで止まっていても届かない。仕事へ戻っても、戻っただけでは埋まらない。
その感覚だけが、静かに、しかしはっきりと残っていた。
申請のあと、旅券や移動経路の確認を淡々と進める。実務の手順へ落とし込めば、感情は少しだけ静かになる。出発日、便名、必要な書類、現地での連絡先。レオは表を埋めながら、自分がやろうとしていることの大きさを、数字と文字の列としてようやく見始めていた。
窓の外はもう暗い。遠くで車の音が流れていく。
何をしに行くのかと問われれば、まだうまく答えられない。
ただ、行かなければならないことだけは、もう疑えなかった。
第115話
出発の前夜
返信の画面は、暗い部屋で少し白すぎた。
仕事だけではない、と書かれた一文だけが、妙に長く残った。
「昔の記録を追いに」
そう来て、
「仕事だけではありません」
とも来た。
カレンはしばらく画面を見ていた。何を追っているのかは分からない。けれど、ただの出張でも、ただの調査でもないことだけは分かった。仕事に見えるかたちをしていて、その奥に別の重さがある。そういう文だった。
帰り道、設備棟の外壁沿いを歩く。換気口から乾いた熱気が漏れてくる。夜の風に混ざると、工場の熱は少し金属っぽい匂いを持つ。カレンはその前で立ち止まり、胸の内側へ耳を澄ました。
炎系の身体は、こういうとき勝手に応える。
外の熱に引かれるように、奥のほうで静かに立つ。
火は出る。
残る。
崩れない。
それが自分の身体だった。
その当たり前が、今夜だけ少し重かった。
残っているのに、届かない場所がある。
それは誰かと比べての言葉ではない。
ただ、自分の中にちゃんと残るものが、相手のいちばん深いところまでは届かない、という感じがあった。名前はつけない。つけたくもない。けれど、設備棟の壁に手を置いたまま、少しだけ分かった。
仕事の熱は機械へ届く。
連絡の熱は現場へ届く。
気遣いの熱も、たぶん少しは届く。
でも、届かない距離がある。
カレンは端末を握り直した。
送る言葉を考えて、やめる。
今夜はまだ送らない。
送りたいのは確認でも詮索でもないからだ。
歩き出すと、胸の奥の熱も一緒に動いた。消えない。大きくもならない。ただ残る。それが自分の身体のやり方だと、改めて思った。